雨は嫌いだ。
孤独を感じるから。
けど、孤独ってなんだろう。
俺は孤独なのか、そうでないのか、わからない。
小さい頃父が繋いでくれた手の感触が、右の掌に僅かに疼いた。









あれは母が亡くなった日だった。まだはっきりと死というものを理解していなかった俺は、牀榻に横たわったまま動かない母を見て、わけもわからずとにかく泣いて母を呼んだ。呼んでも呼んでも当然ながら返事はなく、なぜ母は起きないのだと駄々を捏ねて侍女達を困らせた。そんな俺の手を、ふいに父が掴んだ。
父の左手は大きくて、ごつごつと固くて、僅かに冷たかった。
あまり家に寄りつかない父だったから、当然手を繋いだ記憶などはなく。だから俺は驚いて、父の顔を見上げた。
仰ぎ見るほどの位置にあった父の顔は、なにかを堪えるように歪んでいた。


「男は泣いてはいけない」


父は低い声で、震える声で、そう言った。
泣きそうな顔で、それでも涙は零さずに。


父はその日を境に、こまめに帰ってくるようになった。戦に駆り出されている間はさすがに無理だったけど、そうでない日はほぼ毎日といってもいいほどの頻度で。今になって思えば、無理をしてくれていたのだろう。
それまでどちらかといえば苦手だった父と二人きりの時間は、少しづつ少しづつ大切なものに変化していった。


碁を習った。武器の扱い方も習った。一番最初に父が扱い方を教えてくれた両節棍は、今でも俺のお気に入りだ。その他沢山の事を、父は俺に教えてくれた。俺が父上と呼ぶと、その大きな手で俺の頭を撫でてくれた。
寡黙だけど、優しかった。
けど、その父ももういない。


討死したのだ。
こんな、雨の日に。


『父上ー!』


あの時喉から出た、引き攣れた悲鳴にも似た叫び声は、未だに俺の喉に張り付いている。
父を殺した男、甘寧は、その後孫呉に降った。
俺は、甘寧が許せなかった。
だってそうだろう。父を殺した男がいきなり仲間になったと言われて、受け入れられる筈がない。
父上の仇と掴み掛かる俺を止めたのは、呂蒙さんだった。周瑜さんが冷静な声で、孫呉の為に堪えてくれと言った。冷水を頭からぶっ掛けられた気分だった。それも、滝のように。
だって、そうだろう。
仇討ちを諦めろだなんて、ふざけるなと思った。けれど俺は堪えた。国の為に堪えよと言われたら、堪えるしかなかった。


最初は口をききたくもなかった。それを過ぎたら、嫌味の一つや二つや三つ、言わなきゃやってられなかった。手合わせと称して本気で襲いかかった事も幾度となくある。その度に誰かに止められたのだけど。
けど、甘寧と接する度に、幾度か戦場を共にする度に、窮地を救われる度に、殺意は少しづつ薄れていった。


今じゃ皆、和解したものだと思っている。
今はもう、普通に話せる。・・・嫌味は止められないけど。
俺の恨み辛みなどものともせず、公然と俺の事を仲間と言った図々しいあの男を、きっと俺はもう殺せない。


それなのに。


殺意の種はなくならない。薄れていっても、完全になくなっては、くれない。
それは俺の腹の中で今も暗く燻っている。


(殺せないのに。きっと俺はもう、殺せないのに)


こんな雨の日は、それが腹を突き破ってあの男に襲いかかりそうになる。
殺意の種と感情とに挟まれて、わけがわからなくなる。
だから雨の日は、あの男に会いたくないのだ。
なのに。


「おう凌統。こんな雨ン中、突っ立ってどうしたよ」


なのにどうしてあんた、ここにいるんだ。
喉に張り付いたままの叫び声。腹に燻ったままの暗い種。父の掌の感触が、疼く。


「濡れ鼠じゃねぇか。おめぇよ、好き好んで雨に当たる馬鹿だったか」


うるさいよ。ヘラヘラ阿呆面しやがって。百歩譲って俺が馬鹿ならあんたはド阿呆だな、半裸男。
そう応酬しようかと思ったけど、声を出したら喉に張り付いたままの叫びが、腹に燻ったままの殺意が、瞬く間に溢れてしまいそうで、結局何も言わなかった。
何も言わない俺を見て、甘寧は更に阿呆のような顔をして、言った。


「なんだおめぇ、泣いてんのか」


誰が泣いてるって?泣く訳ないだろ。
男は泣いてはいけない、ってね。父上のお言葉だ。
あんたが殺した、父上の。


そう言いたかった。
けど、喋れない。
叫びが、殺意が、溢れてしまう。溢れてしまったら、何かが崩れてしまう。自分が自分でなくなってしまう。そんな気がして。
なんとなく俯いた。視界の端に映った甘寧の爪先はしとどに濡れていた。


「まぁ、よ。男だって、泣きたい時くらいあらぁな」


呟くような声に目線を上げる。普段逆立てられている金髪は、雨に濡れて大人しく垂れ下がっていた。
俺と目が合った甘寧は、ニッと白い歯を見せる。


「こんな雨だ、ちっとくれぇ泣いたって誰も気付かねぇよ。泣いとけ泣いとけ」


俺も黙っててやるからよ。
恩着せがましい言葉を吐いて、甘寧は手を伸ばした。阿呆面のままで、阿呆のように笑って、俺の頭をぽんと叩いた。そうして身を翻し、立ち去って行く。
背中に描かれた龍が俺を睨んだまま小さく遠ざかって行った。


ったく、人の気も知らないで。
勝手な事ばかり抜かしやがって。
いい加減にしろっつの、バ甘寧。


心の中で悪態を吐きながら、俺はまた俯いた。
母が亡くなった日のように、わけもわからず泣きたくなっていた。
それとももう泣いているのだろうか。
頬を伝う生温かい水が、涙なのか雨なのか、よくわからない。
とにかくそれが不快で袖で顔を拭った。雨水を嫌ってほど含んだ袖は、ただ不快感を広げただけだった。


父も母も、もういない。
俺は孤独なのだろうか。
でも、仲間がいる。家族のように慕ってくれる部下がいる。命を捧げる殿が、国がある。
小さい頃父が繋いでくれた右の掌を見詰めた。


頬を伝う生温かい水。
これは涙か、雨か。
もし、涙だとしても。


「父上、今日くらいは、いいでしょうか」


呟いてぎゅっと瞼を閉じると、目尻から何かが溢れた。
それは次から次へと確かな温かさを持って頬を伝い、顎からぽたりと垂れ落ちる。
同時に喉に張り付き腹に燻っていたものが、少しずつ薄れて消えていくような気がした。









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甘寧は凌統の様子が普段と違うと、途端に優しくなりそうだなぁという妄想と、
凌統は甘寧を認めてからの自分の感情と、過去の甘寧を恨んでた頃の自分の感情の間で板挟みになりそうだなぁ、という妄想を詰め込みました。